昭和46年04月21日 朝の御理解



 御神誡 一、「腹立てば心の鏡のくもること。」

 腹を立てると心がくもると仰せられる、心がくもると言う事は心が、おかげが映じにくくなると言う事。おかげが映らなくなる。例えば心の鏡と言う事を言います。例えば心を鏡に例える。その鏡が曇りましたら、そこに影を映すことが出来ないように、おかげを映すことが出来ない。おかげを頂きたいのでございますから、その心の鏡を曇らせるようになって、鏡を清めた上にも清めることにならなければならん。そこに映じてくるもの、そこに映ってくるものは自分の真実の姿というものが映ってくる。
 そこに私は腹を立てると言う事でなくて、普通でいうなら腹の立つような時にです。相済みませんとか、有難うございますとか、又はお礼を申し上げる心が生まれて来る事にもなりましょう。腹を立てないと言う事でなくて、そういう時にいよいよ自分の心がよくわかる訳であります。ですから腹を立てると言う事は、大体慢心言わば身の程も知らぬと言う事なのです。ですからおかげを頂くという意味合いにおいてでもです、腹を立てると言う事は、こんなに馬鹿らしいことはないわけです。
 だから信心の言わば利口な人というかね、まこれは信心がなくても利口な人は自分自身の心を傷つける。自分自身が腹を立てなければならないことの馬鹿らしいことを心得ておって、腹を立てては馬鹿らしかと言う様な人があります。だからそれだけでも、大体なら大変楽なことですし有難いことです。もう腹を立てんと決めたと。腹を立てんと決めた時だけではない、腹を立てては馬鹿らしいとこういう。
 昨日、私はお説教の中にも申しましたんですけど、例えて言うと、降っても有難いなら照っても有難いんだと。神様の心がわからせて頂いたら、それがようわかってくる。降ることが有難いならまたお天気の日、またはそれが、焼き付くような熱い日であっても有難い。寒い日であっても有難い。神様の心がわかるとそれが両方とも有難いんだけれども、自分だけを中心にして考えるから、自分に都合の良いのだけ有難いのであって、自分に都合の悪いことは有難くないと言う事になる。
 してみると、自分に都合の良いことだけ有り難い有り難いと、例えば100思うたと致しましょうか、そうするとそれの反対のことが起こって参りますと、それは腹立ちとまではいかんでも、不平になり不足になってくる。してみるとせっかく喜ばせて頂いたのがプラスマイナス同じことになります。こんなに馬鹿らしいことはないと気付かにゃいかん。ためには神様の心がわからにゃいけんと。神様の願いが、またわからなけりゃいけんと言う事になる。
 久留米の石井喜代司さんがですね、皆さんも御承知のように、実に利口な信心をする人ですね。お参りをしなくてもやはりおかげは頂けると言う様な生き方。そのおかげの確かに実際おかげを受けてます。それがどう言う事かというと、腹を立てちゃ馬鹿らしかということなんです。どういう腹の立つような問題であっても、腹を立てない。まあ言うなら、ぬらりくらりして、その腹の立たん受け方がですね、ぬらりくらりした受け方をする。それでもやはり腹を立てませんから、おかげを受ける。
 そこで私は、腹を立てれば心の鏡のくもる。くもればおかげが映じない。そこで私は今日は腹を立てないどころか腹を立てる。腹を立てねばならないような時にこそ、いよいよ自分自身がわかるべきだと言う事。高橋正雄先生のお言葉じゃないけれどね、「見ること見ること、自分を見ることと」言っとられます。いろいろありましょうけど、腹の立つような問題の時こそ、自分を見る絶好のチャンスであると思わなけりゃならん。自分をそういう時こそ「見ること見ること、自分を見ること」なのであります。
 腹を立てた時の顔を見て御覧なさい、もうそれこそ、鬼のような顔をしていますね。顔は少し充血して真赤になる。そして何とはなしにです、本当に今にでも角が出ろうかというような形相になりましょうが。「要心せよ、心の鬼がわが身をせめるぞ」と仰せられる。そういう例えばわが心を、わが心で責めさいなむことになる。そこで私は腹を立てないということ。例えばこの大きな願いを立てると、これ等はですね腹を立てない。秋永文男さん達がああして腹を立てませんもんね。
 どう言う事を言うたっちゃニコニコして、これはまたぬらりくらりという意味じゃない。言うならばある意味において、大きな願いをかけているのです。大きな願いを持っているわけなんです。その願いが着々として進んで行っておる。だから楽しゅうなってきたです。自分の願いが段々成就して来よる。この調子で行けば大きなおかげが受けれるぞという、それも感じれれる所までおかげ頂いてです、でここで腹でも立てよったんではです、その大きな願いが崩れる事になると思っておるのではないでしょうかね。
 支那の話にありますね。韓臣という人が人足の股をくぐったという話があります。もうその様な事はですね、人足などから辱めを受ける位の事はもう問題じゃないのです。自分の大きな願い心に比ぶれば。日本にもありますねそういう話が、神崎与五郎の東下りなんかそれなんです。それを心に大きな願いというものがあるからなんです。これはどうでも絶対という願いがあるからなんです。だから馬子風情の前でもです、手を突いて詫びる心、詫証文書くくらいのことは問題でなくなってくるわけなのです。
 ですから、私は腹を立てんで済むというおかげを頂く時にはいろんな工夫が。喜代司さんのようにはっきり腹を立てたら馬鹿らしいと言うてその日の売り上げに影響してくると。だから腹立てたら馬鹿らしかと。なら文男先生達になると、これは大きな願いを立てているからであろうと思います。ですからその腹を立てる様な事は問題が問題でなくなってくる。この頃から文男さん話しとりましたが、腹を立てねば具合の悪いこともあるそうです。けれどもこれは全然心に障らない腹の立て方。
 だから「神様ここで一寸腹を立てますからお許し下さい」と言って腹を立ててるというとります。「一寸ここでは腹を立てなければ具合が悪いですから一寸腹を立てます」ですからもう、腹を立てたらもう後には、次に清めてある。同時に信心をわからせて貰うて、神様の願いが分る。神様の思いが分って来る様になると、今度は腹の立つどころではない、「有難うございます」と言う事になってくる。もう私が思い上がっておった証拠、思い上がっておった印、相済みませんとお詫びする心すら起こってくる。
 おかげを頂きまして、例えば腹の立つ様な事言われる場合であっても、それが例えば「泥棒じゃ。乞食じゃと言われても腹を立てるな」と教祖は仰っしゃる。けれどもやはり身に覚えのないことを言われたり、思われたり、態度に出されたり致しますと、やはりお互い腹が立つ。しかもそれがひどいことである。泥棒じゃとか、乞食じゃとかと言う様な事はひどいことだとこう思う。身に覚えのないことだと思う。
 そこで最後に御理解の中にある、「しっかり信心の帯をせよ」と仰る。ですからしっかり信心の帯をさせて頂いておるとです、そういう例えばひどいことの場合であっても腹を立てんで済む。信心の帯というのは朝、晩参っておりますしっかり御祈念をしておりますと言う事でなくて、信心の帯をしていると言う事は、「今日もどうぞ神様、信心の稽古をさせて下さい」という帯なのです。ですからどっこいと受ける事が出来る。
 今日は神様がどの手を以て、稽古をさせて下さるであろうか、「信心の稽古をさせて下さい」と願ってある。そこで泥棒と言われる、乞食だと言われる。ひどいことを言われることがあってもどっこい、ははぁ神様はこれで稽古を、させて下さるんだなあと。信心の帯を締めておると、受けておると、そういう受け方が出来る。信心させて頂く者がね、腹ども立てよったんでは、というだけではなくて、腹は立てんで済む、いやむしろ御礼の心すら起きてくる。
 いよいよ自分がわかってお詫びする心が、いわゆる謙虚になることが出来る。心がいよいよ豊かに大きゅうなっていくと、どの様な事があっても平気で受けて流すことが出来る。また心に泳がせておくことが出来る。腹が立つ。やはり心が小さいから、そのために私は心を大きくするために、願いを大きく持て、願いを大きく持たねばいけません。本気で願う、有難いことになってくるです。そこにねいわゆるおかげが約束される。おかげはいよいよそこに映って映じることが出来る。
 昨夕久富先生から聞かせて貰うた。お大祭でテンヤワンヤしておりましたから、納戸の方で総着物の着替えを先生方総代さん方やっておりましたので、もうその銘々の着物が脱いである訳です。その中で、秋永先生が紋付が無くなったと。長肌着もなくなったと。自分がろくそうにしとったことは棚に上げてから、もう合楽の奴どんはろくそうなかけん、また俺がつを持って行っとると腹かきよんなさった。とうとういくら探してもなかもんじゃけん。まあ言うならば腹立てながら帰って行った。
 それはあそこは総代さんどんやあの人達ばっかりだから、まあ明日朝の御祈念の時、だから皆に言うてくれと、家内がそう言いよりました。違わんまぎれ込んで行ってるでしょうから、と言う訳なんです。ところが本当に間違っておってから、ここの修行生部屋にかかっておったと。それからすぐ久富先生が、先生が心配、心配はしよらんでしょうがね。呉服屋さんじゃけん紋付の一枚二枚問題はないでしょうばってん。そういうろくそうなことを、「合楽の者はろくそうなか」と言うてまあ腹が立つ訳です。
 だから気分悪うして帰っとんなさるけん。すぐ電話をかけるちゅうちから、言いよんなさいました。それから私が、久富先生に「掛けなさんな、掛けなさんな」ちゅうちから、「ちいたそげなふうでわからせたが良かがの、自分自身がろくそうなかじゃんの」この頃から、廃品回収がありましたよ。あの時京染屋さんだからここの御信者さんが何枚も頼んどった。頼んどったら自分が頼んどった着物が廃品回収の中に入っとった。あらぁ廃品にするのは勿体なかちゅうとが一ぱいこう来とるとです。
 それがお得意さんから預かってから、自分がろくそうにしとったから、どこに持って行ったかわからん。光橋先生がお願いしとったやつもね、それは見よったげなが、自分が頼んどったつがその中に入っとるげなその中に、誰でもこげな立派なもの貰おうごとあるばってん、それは廃品で向うさえやらにゃならんとやから、貰う訳には行かんばってん、これは私がっじゃちゃけんちゅうて、何人か持って行った人があった。
 これは私がお願いしとったとじゃけん、ちゅうてから、「自分が商売人そげなろくそうなことしよってから、ちっとは自分がろくそうなかつのわかるこど。電話しなさんな、来た時で丁度良かがの」ちゅておりましたら、久富先生とうとう電話かけよんなさいました。言う様に、腹を立てなければならない様な事の場合でも、ちょっとこういわゆる、自分というものを見ること見ること。テンヤワンヤの中であったから、皆が誰が間違えて持って行っただろうと。
 ところが実際合楽の人達は、ろくそうなかですもんね。久富先生なんか一ぺんな、紋付から袴から全部持って行かれたですから大祭の時。そして出さん誰も。絶対出て来なかった。そげなこつもあるけん合楽自体がろくそうなかことも本当ですけどね。けれどもそういう時にです、やはり、自分を見ること見ることなんです。「腹立てば心の鏡のくもること」折角大祭で有難いと思いよったとに、一寸着物がこの部屋からあの部屋に移っとったばっかりに、もう心を汚さんならん。
 これでは馬鹿らしい。これでは相済まんと言う事になるのです。そういう機会に恵まれた時、いよいよ自分自身を見ること。これはもういろんな事にそれが言えるんです。先日もある方が、子供が言う事を聞かんと言って、腹かいとんなさいます。それで私が申しました。「自分方に漬けとる漬物の臭うなっとるというのと同じこと」子供が言う事を聞かん、親父自身の重しが軽か事はさて置いてから、子供が言う事を聞かんと言って腹立てとる。自分の重しが軽いからこそ、漬物は臭うなっとるです。
 子供じゃなか親父が親父たるごとないから、そういう結果が生れて来るんですから、そこん時にです、そこが気付かせて頂いたら、ああ子供が悪いとじゃなかったと自分自身を反省することが出来る。まあ今日は腹立てんで済むお話。腹の立つ時いよいよ自分がわかる。腹を立てねばならん時に、いよいよ神様に御詫びをさせて頂ける、実感として。また御礼を申さして頂ける。
 矢張り腹を立てんだけではない、御礼心が、御詫び心が湧いて来る程しの、心の状態を作って行くことが信心だと。ためにはひとつ大きな願を持つことも、腹を立てんで済むことだと言う様に、いろいろな角度から腹を立てんで済むおかげ。いや腹を立てるどころか、むしろお礼を申し上げる心すら生まれて来る。そのことを以て、しっかり信心の帯をしたら、そのことによって信心が一段と進む。信心の稽古が出来るといったようなことを聞いて頂きましたですね。
   どうぞ。